女優・高橋恵子さんは、長年にわたり映像の世界で活躍してきました。その輝かしい経歴の中でも、高橋恵子さんの20年前の「逃避行事件」は特に印象的な出来事として語り継がれています。検索されることの多い「高橋惠子 20年前」というキーワードですが、実際の事件は1979年に起こりました。当時24歳だった彼女が起こした逃避行事件の真相、また現在彼女が何をしているかを詳しく調査しました。
高橋恵子の20年前の「逃避行事件」
華やかな芸能活動の最中に起きた突然の失踪劇。高橋さんが世間を驚かせた「逃避行事件」は、当時の芸能界に衝撃を与えました。そこには、若き彼女の苦悩と決意があったようです。この逃避行事件を起こす前から、高橋惠子さんは心身の不調を訴えていました。逃避行事件の2年前には、ストレスがピークに達し芸能活動を休業。やっと復帰が叶うというタイミングでの事件だったようです。何が起こったのか振り返ってみましょう。
舞台から突然姿を消す
1979年7月、高橋さんは舞台『ドラキュラ』に出演中でした。しかし公演当日、突如姿を現さず、連絡も一切取れなくなります。関係者は「誘拐か」と疑い、警察に捜索願を出す騒ぎに。人気女優の失踪は、芸能界に激震を走らせました。高橋さんの逃避行は112日にも及んだそうです。15歳でスクリーンデビューし、休みなく駆け抜けてきた若き高橋さん。幼い彼女の身に何が起こったのでしょうか。
恋人との海外逃避行
実は高橋さんは作家・河村季里氏と共に国外へ渡っていたそうです。河村季里氏は当時ロングヘアでイケメンの若手作家で、アウトローなイメージがあったそう。そんな河村季里氏に影響されてか、高橋さんはタイやトルコなどを転々としていました。トレードマークだった金髪を切り落とし、別人のように姿を変えていたことも話題になりました。
高橋さんは「死ぬ覚悟だった」と後に語り、精神的に追い詰められていたことが明らかになったのです。
帰国後の逆風
失踪から約4ヶ月後、大阪空港に帰国した高橋さんは報道陣に囲まれます。その際「逃げたりしません」と叫んだ姿が話題になりました。しかし世間の目は冷たく、誹謗中傷や批判にさらされる日々が続きました。当時を振り返り、高橋さんは「"針のむしろに座る"とはこんな感じ」と表現しました。中には、高橋さんと共演NGを出す俳優もいたそうで、世間の風当たりは思った以上に強いものだったようです。
参考サイト:文春オンライン
孤立の中での再出発
共演を拒否されるなど、芸能界での立場も厳しいものでした。個人事務所だった彼女は、すべての責任を一人で背負うことになります。謝罪や損害賠償も自ら対応し、覚悟を持って人生を立て直そうとしたそうです。再出発は、逃避行事件から1年後の1980年、民放のサスペンスドラマで愛人役を演じたことでした。逃避行をする中でたくさんのことを学び発見したという高橋惠子さんは、もう一度女優として奮起することを誓ったのですね。
高橋惠子は20年前の逃避行事件についてどう思う?
現在も芸能界で活動を続ける高橋惠子さん。自身が起こした逃避行事件について、どう考えているのでしょうか。逃避行事件をきっかけに、演技への姿勢も変化したと語る高橋さん。順調な人生だったら、女優を早く辞めていたかもしれないとも話しています。逃避行中に出会った人々の真心に触れ、心を動かされた経験も大きかったようです。高橋惠子さんが当時を振り返っているコメントがありますので、抜粋してみましょう。
「精いっぱいだった」と自分を労う
高橋惠子さんは逃避行事件を起こした当時の自身について「自分なりに精いっぱい生きていたんだなと思います」と振り返りました。「とても人にはお勧めできないことですけれども」とした上で、当時の自分がいかに追い詰められ、死を覚悟するほど生きるのが辛かったか、昨日のことのように思い出せるのかもしれませんね。しかし、猛省するというよりは過去の自分が起こした騒動、そしてそんな自分自身を受け止めている印象があります。高橋惠子さんはご自身やご家族の心身を、何よりも考えらえる優しいお人柄なのだということが伝わってきます。
参考サイト:ヨミドクター
もう舞台に立つことは無理だと思った
高橋惠子さんは逃避行事件を起こし、もう自分が舞台に立つことはないと覚悟したそうです。もともと、舞台も芸能活動もすべてやめて、人生を終わらせる覚悟で旅に出たという高橋さん。公演直前に姿を消したことからも、芸能界に未練がなかったことが窺えますよね。高橋さんはのちに、「舞台を辞めることなんかもってのほかですからね」と、いかに自分が死を覚悟して降板したのかを語っています。
参考サイト:マイナビニュース
なぜ逃避行事件を起こしたのか
高橋惠子さんはその後、逃避行事件を起こした理由について「恋愛の悩みがあった」と明かしています。当時、行動を共にしていたのは若手作家の河村季里氏ですが、トラブルの相手が河村季里氏だったかどうかははっきりしていません。高橋さんは若い頃から濡れ場シーンに出演することが多く、河村季里氏から「汚れている」と言われたという噂もありますが、定かではないようです。しかし、やや風変わりな人物として知られた河村季里氏の影響を受け、逃避行に走ってしまったのは事実のようですね。
高橋恵子のその後
長い謹慎期間を経て、彼女の人生には大きな転機が訪れます。結婚し改名したことで、新たに芸能人生をスタートさせたのです。1982年、映画監督・高橋伴明氏との出会いが彼女の人生を変えます。結婚を機に、芸名を「関根恵子」から「高橋恵子」へ改めました。新しい人生を歩むにあたり、旧姓で生きることに違和感があったからだそうですよ。
高橋恵子は現在何してる?
2025年現在も、女優として活動を続ける高橋さん。家庭と仕事を両立しながら、70代とは思えないエネルギッシュな活躍を見せてくれています。実際の活躍だけでなく、将来の野望についても明るい目標を掲げている高橋惠子さん。死を覚悟して逃避行事件を起こした頃がまるで嘘のように、前向きな未来に向かって歩み続けていました。
女優として今も現役
2025年現在、高橋さんは70歳を迎えましたが、今も女優として活躍中です。映画やテレビ、舞台に加え、近年ではプロデュースにも挑戦しています。夫の監督作品『桐島です』(2025年7月公開)では出演とプロデュースを兼任。演じるのは謎の女で、表現者としてさらなる深みを見せました。テレビドラマにも欠かせない人物である高橋惠子さんは、コンスタントに作品に出演し、存在感を見せてくれていますよね。
家族に囲まれた私生活
高橋さんは結婚後、一男一女に恵まれました。長男は一般人で、長女の佑奈さんは高橋さんのマネージャーをしているといいます。高橋さんやご主人は、自宅で仕事の話を一切しないそう。高橋さんとご主人、そしてお孫さんと食事に行き、進路の話をすることもあり、家族一丸となって前向きな人生を送っていることが分かりますね。
未来へ向けた挑戦
高橋惠子さんは『徹子の部屋』に出演した際「83歳になったら女優から転職したい」と語っています。実は、2021年で女優の仕事を辞めるつもりでいたそう。コロナ禍で人生を見つめ直し、お芝居以外のことに挑戦したくなったのだとか。しかし、その2021年になったとき「まだやりきっていない、やめてはいけない」と強く感じ、偶然にもその3日後にミュージカル『HOPE』のオファーがあったそう。60代で初めて人前で歌うことになったのです。「今度はヒップホップでも習おうかしら」と、さらなる野望を語っていましたよ。
まとめ
若き日の逃避行を経て、今も輝き続ける高橋恵子さん。どんな苦難の中でも信念を持ち続ける姿勢は、多くの人に勇気を与え続けています。一度は死を覚悟し、すべてのことから逃げ出した高橋さん。しかし、思いとどまって戻ってきたこと、運命の出会いを果たし子宝に恵まれたこと、そして現在でも芸能活動を続けられていることは、高橋さんにとって幸せ以外の何物でもないでしょう。これからも、その生き方に注目が集まりそうですね。