高田純次は若い頃どんなだった?経歴や「適当男」になったきっかけや妻についても (1)

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高田純次は若い頃どんなだった?経歴や「適当男」になったきっかけや妻についても

適当男の異名で有名な高田純次さん。いったいいつから適当男と呼ばれるようになったのでしょうか。

今回は高田純次さんの経歴などについて紹介します。

高田純次の経歴

高田純次さんの若い頃はどのような方だったのでしょうか。ここからは高田純次さんの経歴を見ていきますよ。

東京デザイナー学院グラフィックデザイン科に進学

東京生まれで4歳の時に母を亡くした高田純次さんは、東京ガス勤務の父とその再婚相手である継母との家庭で育ちました。調布市立の小、中学校、そして東京都立府中高等学校を卒業すると、東京ガスへの就職や弁護士などを目指して中央大学、明治大学、法政大学、青山学院大学を受けるも全て不合格。一浪して東京藝術大学、武蔵野美術大学、多摩美術大学、日本大学芸術学部といった美大系、及び成城大学を受験したもののそれらも不合格となり、最終的に東京デザイナー学院グラフィックデザイン科に進学しました。

1971年に俳優を志す

1971年、24歳の時に「自由劇場」という1966年結成のアンダーグラウンド劇団の舞台を見て俳優を志すことに。まずは自由劇団に入って研究生となったものの、高田純次さんは1年で同劇団を退団、続いてイッセー尾形さんとともに劇団「うでくらべ」を結成したものの、それも半年ほどで解散しました。その後、一度は会社に就職したものの、自由劇団の研究生時代からの知り合いだった柄本明さんと再会したことから、1977年に会社をやめて劇団東京乾電池に入りました。

「警察に捕まるようなこと以外の職は一通りやった」

自由劇場に入った頃から劇団東京乾電池に入った頃の高田純次さんは、劇団の収入では生活できない状況でした。そのため宝石販売会社「トキモト」で宝石営業とジュエリーデザイナーの業務を行った他、様々な仕事を行っていたようで、本人曰く「警察に捕まるようなこと以外の職は、一通りやった」のだとか。それほどに、仕事を選ばずに働いたということなのでしょう。

32歳でテレビデビュー

高田純次さんのテレビデビューは32歳の頃のこと。最初の出演は「笑点でした」。その後、バラエティ番組「笑ってる場合ですよ!」、ドラマ「毎度おさわがせします」でレギュラー出演し、1985年放送開始の「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」では、1996年の放送終了までずっとレギュラーとして出演、本格的なブレイクを果たしました。

1988年に出演した中外製薬「グロンサン」のCMでは、「5時から男」というキャッチコピーが話題に。新語・流行語大賞の大衆賞を受賞しました。

適当男と呼ばれるようになったのは59歳の時?

明るく冗談を垂れ流す芸風から「昭和の無責任男」「芸能界一いい加減な男」といった異名を取るようになった高田純次さん。2006年には、精神科医の和田秀樹さんが高田純次さんと対談し、高田純次さんの性格を分析するという内容の、高田純次さんの書籍「適当論」が発売され、この本がヒットとなりました。「適当論」というタイトルの本が売れたことこそが、「適当男」というイメージが定着した要因だと高田純次さんは考えているようです。

高田純次の妻は?

高田純次さんは自由劇場時代に同じ劇団員として働いていた、一歳年下の勢子(せいこ)さんと1973年に結婚されています。奥様は日舞の師範をやっていたらしく、知り合いを通してその公演を見に行った際に、終わった後に話をしたということも語っていますよ。

2023年に金婚式を迎えたお二人ですが、高田純次さん曰く金婚式も銀婚式も、祝いごとは何もしないのだとか。奥様からは洗濯物を取り込まないことやドア、カーテンを閉めないことなどについて、毎日文句を言われているそうです。そういったことを素直に言い合えるのも、仲の良さゆえでしょうね。

参考ページ・高田純次 昨年、金婚式の妻とのなれ初め告白「彼女が日舞の師範をやっていて…」― スポニチ Sponichi Annex 芸能

最後に

今回は高田純次さんの経歴などについて紹介しました。仕事には真剣に臨み、それが終わればぐったりしたままのタイプだという高田純次さん。適当男としての姿も、周囲から望まれたイメージを演じたからかもしれませんね。

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